チキン・スープ(ユダヤ風)

つのことだか、旅先のアルクマールという街で出会ったアメリカの女の子と、

数時間を一緒に過ごした時のこと。”本読み”を自称する彼女に好きな本を尋ねると、

「Franny and Zooeyね」と、フェデラーのリターン・エースのように一瞬で回答が戻ってきた。

 

そして、その時の僕はアメリカの作家、J.D.サリンジャーの書いた「フラニーとズーイ」を

読んでいないことを後悔しつつ、「Catcher in The Ryeなら読んだことあるよ」と、

どうしようもなく無理に話を合わせたことを猛省することになる。

あの時もう少し時間があったら(彼女は数時間後に次の街に移動する列車に乗った)、

僕は彼女に恋していただろうし、その後の人生で出会う女の子たちが「私はフラニーが好き」と

口にするたびに、うっかり恋に落ちてしまいそうなほどの影響を及ぼしたのだから。

 

「フラニーとズーイ」はサリンジャーが1955年に文芸誌『The New Yorker』に発表した『Franny』と、

1957年に同誌に発表した『Zooey』の連なる二編の小説を1つにまとめたもので、

前途の通り『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』に並ぶ、代表作のひとつ。

 

大学に通うフラニーと俳優のズーイは、7人兄弟姉妹のグラース家(ユダヤ系)の末娘とその五歳年上の兄。

物語は遠くの街に暮らすスノッブなボーイフレンドとの最悪のデート(小旅行)から還ってきたフラニー、

その彼女を心配する母ベッシーが兄ズーイに様子見と説得を頼み、

その彼がフラーニを冗長な話と皮肉交じりの説得を試み、

愛のある論破をしながら小さくも偉大なるクライマックスを迎える、といった会話劇。

(完全にネタバレだけど、肝心なのはそこで繰り広げられる会話の節々であってスジではない、と考える)

 

フラニーは彼女の年齢にありがちな、自意識過剰の真っ只中。

すべてのことが鼻につき、すべての人々が嘘つきに映ってしまう。

そして同じ血の流れているズーイも負けず劣らず面倒臭いハンサムな皮肉屋(実は名言を連発する)。

そんな何を言っても聞く耳を持たないフラニーの鼓膜に一石を投じたのが、

ズーイが用いたチキン・スープの例え話。

 

信じられることを探して、宗教的な生活を目指しているフラニーに対して、

母ベッシーが彼女の健康を心配してつくるスープすら口にしない本人に対して、

目の前の(宗教的とも言ってよい)神聖なるスープを飲もうともしない(愛を受け取ろうともしない)

彼女のその行動を指摘するフラニーの言葉が、コトコトとスープを煮込むように、

だんだんと彼女の耳に届くきっかけとなるのだ。

 

ここで登場する(実際には登場すらしない)チキン・スープは、特段おいしそうでもなく、

想像するに華やかさもないが、広告のコピーにすると陳腐に聞こえてしまいそうだが、

「心身に沁みわたる、まさに慈愛に満ちた」スープなんだろう。日本風に言うと「お袋の味」ってわけだ。

 

この物語を読み返すたびに、あるいはただ思い出すたびに、

僕はアルクマールで出会った彼女のことを思い出し、

そしてベッシーの、あるいは母なるものの作りしチキン・スープのことを想い、

優しさと温もりと心強さを求める喉の渇きと、愛のようなものへの渇望を覚える。できることなら、

このままスープと食事でお腹を満たし、静かにソファに寝そべり、

夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、天井に向かってニヤニヤしたいものだ。

(文・SNOW SHOVELING店主 中村 秀一)

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