物語の〆のまずくないスープ
“それは、とにかくまずいスープだった。
表面には粉々になったガラスみたいに浮かんだ油が散らばり、ぶつ切りにされた魚の身や骨が無残に沈んでいた。
味を思い返すと、今でも口の中には直接、まずさが蘇ってくる。
沼みたいなスープだった。まずさが沼の底に沈殿するように、おれの記憶に沈んでいる。”
という書き出しから始まる小説「まずいスープ」の話をしよう。
著者の戌井昭人さんは鉄割アルバトロスケットというパフォーマンス集団を主宰しており、
僕はどちらかと言うとソッチのファンとして彼のことを知っていて、著作もいくつか読ませてもらっている。
いきなり余談だけれども、“鉄割”も機会があれば貴方にも観てもらいたい。
あれは凄い。芸術と笑いが奇跡的なポイントで出会うのだから。
さて、本題。そうそう、スープの話。しかも“まずい”やつ。
いえいえ、ちゃんと美味しくなるはず。たぶん。
それにしても「スープが紡ぐ、日常と感情。」をテーマにしているメディアの読者に対して
提案する本のタイトルとしても勇気はいるのだけれども、ここはひとつ、出汁がでるまで(灰汁もとりながら)、
あるいは素材に味が染みるまでもう少しコトコトとお付き合いいただきたい。
この物語は、普段は料理が上手いはずの父親が、アメ横で買った魚で、
なぜだか“まずい"スープを作り、
家族に食べさせた後に「サウナへ行く」と言って謎の失踪を遂げる。
そこから始まる、残された家族の日常と失踪した父の足跡を追う人間ドラマとでも言いますか。
お金を貯めてはバックパッキングで旅を続ける主人公、どケチな爺さんの遺産のアパート経営をする酒浸りの母、
読モをしているヘビースモーカーの従姉妹の女子高生で構成される不思議な家族。
叔母は水商売で、バイト先の店主はブライアン・ジョーンズが好きなシングル・マザーなどなど、
とにかくこの物語の登場人物には普通な人たちが出てこない。
(そもそも普通て何だ?って話もあるよね)
言うことややることも無茶苦茶だったりすることも少なくない。
この本を読んでると(舞台となる)浅草とか上野の辺りに住んでる人は
みんなこんななのかと思ってしまう(当然そんなことない)。
でも、と言うか、だからこそと言うか、誰もが喜怒哀楽に正直で人間的、ダメでカワイイ。
ちゃんとそこに愛がある。
そしてそんな「あまりマトモじゃない」人たちの生きざまを見ていると、
いつの間にそっちの方がマトモにも思えてくる。
言いたいこと言って、やりたいことやって、人間ってこんなのでいいんじゃないのかな~って。
客観的に見ても、次々に主人公の周りで起こることは悲劇的なのだけれども、
それが読者には喜劇的に思えてくる。
なんだか笑えるのである。ウルフルズの「とにかく笑えれば」でも聴きたくなる(脱線)。
例えが貧困で恐縮だけれども、
ケン・ローチの映画を観てるような、つげ義春の漫画を読んでるような、
独特なヒューマニティの溢れる物語は(ネタバレになるが)、
逃亡先の伊東にやってきた主人公とほろ苦い再開を果たした父が、
自分たちで釣ったタコのタコ汁(スープとも言う)を作り皆で食べる。
そう、物語は“まずい”スープに始まり、
美味しい汁で「お後がよろしく」終わるのだ。水戸黄門のように一件落着して。
料理も人生もそうだけれど、
見た目が良いだけで
中身が伴わないものもあれば、
決して美しい姿をしてなくても、
"確かなもの"というのも存在する。
再び、料理も人生もそうだけれど、結局は愛がすべてってことなのかもしれない。
(ビートルズもKANも広瀬香美も永瀬正敏も言ってたね←例えが全部古い)
(文・SNOW SHOVELING店主 中村秀一)