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【続、おはなしスープ】祈りの缶入りコーンスープ

今月の一冊📖

いくつもの週末/江國香織


自動販売機の缶スープが好きで、見かけるとつい買ってしまう。

昔から変わらずいちばん好きなのはコーンスープだ。

まず、缶そのものが好き。すこし小さめで、力を入れて握ってもつぶれないスチール缶は、寒い冬の日のカイロ代わりにうってつけだ。自販機から取り出してすぐの痺れるような熱さは何度繰り返しても慣れないけれど、次第にてのひらの温度と溶け合っていくあの感覚は幸せそのもので、でも、甘えにまかせていつまでも暖をとっていると、プルタブを開けたとき、とうにスープは冷めきっているから油断ならない。缶スープは、こちらの甘えを厳しく見抜く。

もどかしさも好きな気持ちを煽るもので、コーンスープにおいてそれは最後の一粒問題である。

スープを飲み干したあともしぶとく缶の中に残るコーン。わずらわしさに反して沸き起こる征服欲から、いやしくも飲み口に指を差し入れ、何度怪我をしたことか。人目も気にせず缶を振り回して、服をよごしたこともある。あらかじめ飲み口の下の部分をへこませておくという方法も、当然試して玉砕済みだ。泣く泣く缶を捨てたあとも、いじいじとゴミ箱を見つめている。もうやめようと思いながらも、求めることをやめられない。おしまいがわからない。

ひょっとして私は、缶入りコーンスープを通して「不安」を味わっているのかもしれないとも思えてくる。コーンスープはただそこにあるだけなのに、自ら振り回されに出向いていって、癒やされたり焦らされたりしながら、思い通りにならない快楽を貪っている。


なんだかこれって、恋に似ている。

 

江國香織著『いくつもの週末』は、著者が結婚をして「もうじき二年」という秋から、「もうじき三年」という秋までに書かれたエッセイ集だ。会社員の夫と結婚したことによって「週末」という概念を得た生活を、日々の思いや移ろう季節、男女のあいだにあるものを交えつつ16篇のエッセイで綴る。

手に取る本も、好んで食べるものも、不意に口ずさみたくなる歌も全然ちがうふたりは、おなじ場所に暮らしながら、毎日ちがう風景を見ている。情熱と寛容をたたかわせてしょっちゅう喧嘩をするし、一日じゅうくっついて過ごしていたいのに「この人は一体どうして──」というささいな苛立ちが立ちあらわれて消えない。平日は早く週末にならないかなと思うのに、月曜日には疲労困憊していて、「よその女」になりたいと密かに思いながらも、妻として最大に甘やかされたいと願ってしまう。

いわゆる新婚期にある男女であるけれど、読み心地は、日の照りながら雨の降る景色を眺めているようだった。ふたりになってしまうことへの恐れと、満たされることなどないと知る安心が全体から伝わってきて、私にそんな景色を見せたのだと思う。

そして、子どものころから臆病で、「もうやめよう」と思うといっそさっぱりする質の著者が、ふたりの生活を賭けるような思いで待ち望んでいるのが、缶スープなのだった。


〈自分でもいやになる切実さで缶スープを待っていた。毎日販売機までみにいった。一年目の冬のはじめ、それをみつけたときには、だから、ああ、と思った。ああ、これできっとまだ大丈夫〉(「自動販売機の缶スープ」より)

 

ふたりで住む家を借りたばかりのころ、自動販売機の缶入り

コーンスープをはじめて飲んだその味を、「もうやめよう」をやめる頼りにしようと著者は定めたのだった。

一年目はまだかまだかと待ち望んでいた感覚が、

二年目「あれ、もうそんな時期?」に変わっていく。余裕が

でてきたことを缶スープの登場で知る。缶入りのコーンスープを男女関係の

尺度にする人がいれば、私のように、男女関係そのものを見る人もいておもしろい。



ちなみに私にとって「もうやめよう」をやめる頼りになっているのは、ほかでもなくこのエッセイ集だ。結婚なんてちっとも信じていない私でも、男女関係において危機的状況に立ったとき、祈るような気持ちで『いくつもの週末』を読んできた。書かれてあるふたりの関係に、美しくてばかげていて幸福ななにかを感じ取れたなら、きっとまだ大丈夫だと思うことができたのだった。

男と女、正しさなんて通用しない関係にたちむかうとき、江國香織という共犯者を得ることは、なによりとても頼もしい。


(文・文筆家 木村綾子)




次回の「続 おはなし、スープ」は、

2024年11月を予定しております。お楽しみに♪

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