愛について語る時に黄昏の食卓を彩る「ホッピンジョン」
「もう幾つ寝るとお正月~」と、数えるにはずいぶん時間がかかりそうな、
そしてその前には緑が生い茂る、気も触れてしまいそうな夏がやってくるね。
いや、もう来ているか。
人の記憶というのは、だんだん薄れていくものなのかもしれないけれど、
たとえば12歳の夏休みの朝のラジオ体操の帰り路や、テレビから流れてくる高校野球の金属バットの音、友達とはしゃぎながら嗅ぐプールの水のカルキの臭いなんかは、
冷凍庫から取り出して瞬間解凍できるくらいに鮮明な記憶(あるいは感覚)として残っていたりする。
去年の夏、一昨年の夏に何してたかなんてロクに憶えてやしないのにね。
さてさて、この夏に紹介するのはカーソン・マッカラーズの「結婚式のメンバー」という物語。
アメリカはジョージア州出身の作者の思春期を投影した自伝的な作品となっている。
南部の田舎町に住む12歳の少女フランキー
(ときにF・ジャスミンときにフランセスを名乗る)は、
背が高すぎて、感じやすく、周りの友だちともうまく合わせることもできない、
保守的な田舎の風習にも馴染めない。
そんな彼女の毎日は、通いの料理人のベレニスと、
従兄弟のジョン・ヘンリーくらいしか遊び相手もいない孤独で退屈な日々。
言葉にできないガラクタのようなジレンマを抱え、希望の兆しもなく、
そんな彼女の状況を説明してくれる親切な人もいない。
ここではないどこかへ行きたい、
あるいは自分にふさわしい世界を求めている。
そんな彼女に「渡りに船」のように訪れたのは
兄の結婚式の知らせ。
フランキーは”結婚式のメンバー”になって、新婚夫婦の仲間となって(おいおい)、この場所、この街、
この世界から出ていくことを夢見るのだった。
そう、それは随分無茶な夢だよフランキー。
話をスープに寄せると、この物語の中で「ホッピンジョン Hoppin' John」という聞きなれない料理が登場する。
※
F・ジャスミン(フランキー)は、黒目豆(ブラックアイドピー)をベーコンの塊で煮込むその食べものが大好物で、
自分が棺に入れられるときは、そのホッピンジョンを鼻の前に
チラつかせてくれと彼女はみんなに強く頼んでいたそうだ。
「そうすれば本当に死んでいるかがわかるはずだから」と。
物語でいうと第2章に、それくらい大好きなその料理が
登場するシーンがとても印象的で、想像してみるに物哀しく、
なんだか美しい。
“彼らはそれを食べながら愛について話をした。
それはF・ジャスミンがこれまで一度として語ることのなかった話題だった。
だいいちに彼女は愛なんていうものの存在を
信じたことがなかった(中略)
しかしその日の午後、ベレニスがその話題を持ち出した時、
F・ジャスミンは嫌がって耳をふさいだりはせず、豆と米と煮汁を口に運びながらおとなしく話に耳を傾けていた。”
(新潮文庫 P157より)
40近い黒人女性のベレニス、まだ6歳と幼い従兄弟のジョン・ヘンリーとの完全固定メンバーの間で、
共通点なんかほとんどない状況、そんななかで交わされる夏の黄昏時の食卓での、“いい人”つまり恋や愛の話、
お互いの常識が全く通じないお互いの“頭のおかしい”話、
そしてF・ジャスミンが「結婚式に恋してる」
まったくクレイジーな話…。
そんな全く「I gotta feeling ♬」しない、
チグハグでどうしようもない会話が、
切なくも、共感を覚えてしまうのは、なぜだろう。
それはきっと僕に(君にも)かつて12歳だったことがあるからではないだろうか。
何がノーマルで何がノーマルではないかもわからない、
答え合わせもできない年頃、
無粋な言い方をすると多感な年頃。
その頃だけに自然に発生する好奇心や、先入観のない心から芽生える思考や感情、
そしてそれらが引き起こすアンビバレンス。
そんなシンパシーだかエンパシーだか知らないけれど、身に覚えのようなものが、
一瞬で僕を(たぶん貴方を)12のころに連れて行く。
そしてどうしようもなく、全然説明のつかない話だけれど、
そのホッピンジョンなるアメリカの南部料理がロクに食べたこともないのに食べたくなる。
乾きさえ覚える。まったく季節外れの夏の黄昏時でさえ。
(文・SNOW SHOVELING店主 中村秀一)
※ホッピンジョン (新潮社文庫本 P157 訳注:豆と米とベーコンでつくるシチュー。南部料理)
アメリカ南部のお正月料理なんだそうです。